(立て続けにちょっと古い記事が続きますが、記録として当ブログにアップしておきます。)
アダさんとの再会・旧友との再会
運があったのか、縁があったのか。再びモスクワの地を踏むことになった。勤め先にわがままを言ったが、約1か月の休暇をもらい2年ぶりにロシアへ向かった。今回の旅行の目的は「再会」である。以前お世話になったアダさんはじめ、友人や先生に再会し、私が大学を卒業した今でもロシアを忘れていないことを示したかった。
出発前、アダさんに電話をかけ「モスクワに行ったら泊めて」と頼むと、彼女は「いいよ」と即答してくれた。
そして再会。
アダさんは外見は相変わらずであったが、やはり2年分の年をとっていた。以前なら私が何をするにも三言四言は意見せずにいられなかった人だが、元気がなくなってしまったのか、一言二言言うと引き下がってしまう。例えば、友達に誘われてモスクワのクラブに行こうとしたが、待ち合わせがうまくいかず結局ロシアクラブ・デビューのチャンスを逃してしまった。(注:まだ携帯電話、持ってませんでした!)それを残念がっていると、アダさんが「どんなコンサートに行きたかったの」と聞いてくる。きっとケチをつけられるだろうと思い「多分、アダさんの嫌いなタイプの音楽のコンサート」と言うと、「あぁ」とすぐに理解して笑っただけだった。文句を言われるだろうと身構えた心が肩透かしを食ったようで物足りなかった。
元気がなくなったのはアダさんだけではなかった。私と同じ年代の友達も心なしかパワーが足りない。それぞれ大学を卒業し、生活の重みを感じているせいかもしれないが、それだけではない印象を受けた。
友達のターニャは、ご主人と子供とアメリカに移り住むことになった。ロシアを離れることにとても抵抗を感じているらしいが、ご主人のITスキルが買われてアメリカの会社に引き抜かれたと言うことだ。彼女自身は教師をしているが、給料がまともに払ってもらえない。モスクワでは子供を満足に食べさせることができない、と言う。その結果のアメリカ行きである。
コーリャは、大学院卒業後スペインで仕事を探すつもりでいる。物理学専攻の彼が満足できる設備の整った職場はロシアにないらしい。また、生物学専攻のヤーナも同じ理由でドイツ留学を手続き中だった。彼女は実験設備や研究環境だけでなく、周りの友人や先生までもが勉強する気力に乏しいと嘆いていた。
海外での生活や勉強に可能性と期待を抱く若者は、日本でも多くいる。しかし、ロシアの友人たちの場合、より大きな可能性を信じているというより、ロシアでの可能性を見いだせずに出ていくように思われてならない。
滞在中、サンクト・ペテルブルクの友人を訪ねた。彼女はアリョーナと言う。大学卒業後、就職難のためアルバイトを転々としていたが、最近私立大学で英語の教師の職を見つけた。アリョーナは仕事で毎日、日本で言うなら高校生から大学生くらいの若者と接している。彼女も、ロシアの若者に気力がないという私の意見に賛成した。2年前に感じた活気とは裏腹に、ロシアの未来がぼやけてしまう気持ちがした。
また、アリョーナはモスクワにかなり批判的な人でもある。「モスクワ以外の町の人が飢えて死んでいっても、モスクワだけが発展していくんだわ」……ロシア第2の都市に住むアリョーナがこんなことを言うのを聞き、まだ行ったことのない北の果ての村や平原のど真ん中に住む人を思いやった。モスクワは850周年(1997年)を迎えて美しく生まれ変わっていたが、ロシアにはきっと100年近くも姿を変えていない村や集落もあるんだろうなと思った。
こう書いてくると、どうもマイナスイメージの多い滞在記であるが、私の知っている人々は以前と同じように温かだった。アダさんは以前、私を単なる同居人とみなしていた感じもあったが、今回私が帰国するとき「まったく娘のようになってしまったよ」と言ってくれるまでになった。彼女は私の祖母と同い年なので「娘か~」と複雑な気持ちになったが、まぁいいことにした。
行くたびにいろんな意味で大変なところだと思わずにはいられないロシア。それでも嫌いになることはできない。アダさんや友人たちが待っていてくれる限り、私はまたロシアへ行きたいと思う。
(JICインフォメーション第93号(1998年10月10日発行)へ寄稿、一部改訂)
21世紀から振り返るリヒーエ90年代
私が初めてロシアの地を踏んだのは1993年7月。それからほぼ毎年、時間を見つけ、なけなしのお金をひっつかんでは、ロシアに出かけていましたが、1997年の印象が一番暗く沈んでいたかもしれません。
よく考えたらこのころロシアではデノミネーションが行われたんですよね。(※デノミネーション=インフレが行き過ぎてモノの価格の桁数が増えすぎた際に、ゼロを切り落とす操作のこと。1998年、ロシアではゼロを3つ切り落とすデノミネーションが行われました。)
デノミネーションが行われたということは、それまでのインフレがひどかったことを表します。
世界経済のネタ帳によると、リヒーエ90年代のロシアのインフレ率は、1993年―874.26%(!)、94年―307.55%、95年ー197.30%、96年―47.75%、97年―14.76%……インフレ率が鈍くなり始めたことから、デノミに踏み切ったのでしょうかね?(笑)(すみません、経済学的なことはさっぱり分かりません……ちなみに、1998年夏には「ロシア経済危機」と呼ばれるものが起こり、インフレ率は27.69%に再上昇、その後インフレ率一桁台になるのはようやく2006年になってから)
1997年、1998年は新生ロシアになってからの疲労感が一番出ていた時期かもしれませんね。新しい生活には、希望もありますが、気力・体力が奪われるのも分かります。逆に1993年、1994年の「活気」は先行きが何もわからないからこそのお祭り騒ぎだったのかもしれません……。