雑記

【リヒーエ90年代】モスクワ滞在記(1994.8~1995.3)

90年代シリーズ・第2弾

ロシア語を生業として暮らしているのに、もう10年以上もロシアの大地に足を踏み入れていない私……。昨年(2020年)、久しぶりにロシアへ飛んで、ロシア滞在記を書ければ……と目論んでいたのに、コロナ禍であえなく断念(涙)

ステイホームで家の整理・断捨離を進めておりますが、そんな中で発掘した文章を代わりにご披露いたします。ゴーゴリのトロイカに続いて、若かりし頃の青臭い文章ですが(笑)、私がロシアと関り続けている原動力がこの頃に芽生えたものだと思い出しました。

アダさんと暮らした半年

大学2年の秋、私は何もする気がしなかった。クラブ活動をしていなかった私は、大学に行って、授業に出て、帰るとアルバイトをする毎日だったが、そのどれもが面白くなかった。

そんなある日、大学のロシア人教師から、留学生を、自分で立てた計画と共に受け入れてくれる人がいることを紹介され、私はモスクワ行きを決意した。ロシアやロシア語に対する興味はもちろんあったが、今ほど強いものではなく、その当時はむしろつまらない学校生活から抜け出したいという「逃げ」の気持ちが大きかった。

翌年、私は大学を休学し、さらに半年かけて準備をし、ようやくモスクワの地を踏んだのは、1994年8月30日だった。モスクワはもう肌寒かった。

私はホームステイ希望だったので、一人暮らしの女性のところで生活するようになった。生活自体はシャワーの水が出ない以外は快適であったが、留学生活の最初の1か月はステイ先がはっきりと定まらず、落ち着かない毎日を送った。ロシア的な「何か」になれるのにも非常な精神力が必要だった。午前中はロシア語の個人授業を受け、午後は友達も知人もほとんどいなかった私は、一人で森のような公園をふらついたりしていた。この頃のロシアの印象といったら、思い切り話のできる友達がいない寂しさと、うっそうとした森ぐらいだろう。

滞在1か月にして、やっと私は落ち着き場所を見つけた。半年という長い期間にも関わらず私を受け入れてくれるという人が現れたのだ。年金暮らしのおばあさんで足が少し悪い。典型的なロシア人の体格をした人だった。そして、私のロシアでの保護者となり、おばあさんとなり、先生ともなり、最終的には誰よりも私に、先に述べたロシア的な「何か」を教えてくれる人となった。引っ越しは10月10日に完了し、私はモスクワで本当に腰を落ち着けた。

彼女はアリアドナ・パーヴロヴナといい、私は彼女のことをアダさんと呼んだ。「さん」づけにして呼ぶのは、アダさんが決めた。彼女は日本人が人を呼ぶときに名前の後ろに「さん」をつけることを知っていたのだ。初めは、私の方が外国人の名前に「さん」をつけるのをためらったが、慣れてみるととても呼びやすい。おばあさんを呼び捨てるよりもなんだか安心できるのだ。アダさんは年金生活者の上、足も弱いので、私が授業を終えて帰ってくると必ず家にいて、昼食と共に私を待っている。そして、私が授業で何を読んだか、帰り道がどうだったかを話すのをいちいち全部聞いてくれた。彼女も私も動物好きなので、ときどき隣の家族が飼っている犬と猫を家に招いて遊んだりもした。

アダさんは、昔医学者だったのだが、知識の範囲がとても広く、文学・芸術・建築にも通じており、書物の数も多かった。そのため、私にどんな美術館へ行けばよいか、どんな本を読めばよいかを助言してくれた。また、私が本を読みたいと言えば、いつでも我慢強く私の朗読を聞き、間違いを訂正したり、分からない言葉の意味や時代背景を説明してくれたりもした。しかし、そうかといって、近寄りがたいインテリでもなかった。私にいろんな俗語的言い回しを教えては笑う人であった。

今では大好きなアダさんであるが、年齢差がおよそ50もあり、文化背景も異なる私たちがすぐに意思疎通できたわけではない。例えば、やがて私にも友達ができるのだが、私が家で友達の話をすると、アダさんは彼らのあら捜しをするのだ。私が「今日オリガと学園祭に行ってくる」というと、アダさんは「もっとましなところへ連れていってくれないの、あなたの友達は」という具合だ。また、買い物をすると「こんな野菜を買ってきて」と言い、美術館へ行ったというと「なんで美術館へ行って何を見たのかちゃんとメモを取っておかないの。後で忘れるでしょう」と言う。

生活は総じて順調に進んでいたが、事あるごとにこのように言われるのは、ストレスだった。姑に小言を言われる嫁の辛さはこんな感じだろうか。だが、これは年齢差によって生じるちょっとした衝突だと私は思っていた。実際、私にも不手際が多かったことは認める。

しかし、年齢差だけでは説明できない壁がアダさんと私の間にあると感じさせる出来事が起こった。

ある晩、私はアダさんに日本の絵葉書を見せて、日本の話をしていた。彼女は最初静かに私の話に耳を傾けていたが、突然「でも、やっぱりロシアの方がきれいね。日本の芸術は、きれいかもしれないけどロシア人の心にはちっとも響かないわ」と言った。私は何かひどく悲しく悔しい気持ちになり、目に涙を浮かべて黙ってしまった。

私は、そのまま自分の部屋に戻って寝てしまった。次の日からも、また普通に互いに接した。私は、日本の話はもうするまいと決めた。アダさんに話しても、また分かってもらえないと思ったからだ。しかし、アダさんの方はそうではなかった。きっかけがあると、日本のことを尋ねてくるのだ。テレビで日本に関する特別番組が放送されると、私と椅子を並べて番組に見入っているし、「昔日本の歌手がロシアの民謡を歌ってて、それがすごく上手だった」と何度も思い出しては私に話したりするのだ。

そうしているうちに、アダさんは日本を嫌いなんじゃないか、分かってくれないんじゃないかと考えるのが馬鹿らしくなってきた。アダさんは、きっと日本を嫌悪して「日本の文化は理解できない」なんて言ったのではないだろう。ロシア人独特の愛国精神が彼女をして言わせたのだと私は気付いた。

こういった愛国精神はアダさんだけにあてはまることではない。アダさんの年代の人はもちろん、私の両親の世代の人々も持っており、さらには私と同じくらいの年齢の人も多かれ少なかれ持ち合わせている。特に、歴史や文学、芸術面に関してはロシア人は大きな誇りを抱いており、他の国のそれと並べて考えられないほどに愛しているのだと思う。私は、最初これを越えられない壁と感じたが、だんだんとロシア人の自国の文化に対する一途さを愛おしく思うようになってきた。

しかし、ロシア人は大きなジレンマも抱えている。文化面に関しては自信のあるロシア人だが、現在(注:リヒーエ90年代)のロシアの社会情勢は「文化」どころではない。アダさんはあまり外出しないのだが、たまに出かけて帰ってくると、一日中文句を言っている。「今の人は心が無くなってしまった」「みんなならず者だわ」「ロシアはもう終わりだ」 私自身は今のロシアしか知らないから昔と比べることができないが、この類の発言は、子供でなければ誰からでも聞くことができたので、おそらく人々の生活は以前よりはるかに苦しいものとなったのだろうと想像できる。

ロシアの老若男女は、大きなジレンマを抱え、愚痴を言いながらも、小さなことから楽しみや幸せを発見して毎日を楽しく暮らしている。ロシア人は根っからの楽天家なのだ。それに比べて、私は不足のなかったはずの生活から、なぜ逃げ出してきたのだろうと不思議に思った。

以後、アダさんと私は相変わらず嫁・姑のような感じで暮らしていったが、12月の私の誕生日にそれは祖母・孫のような関係に変わった。誕生日の前日の夜、アダさんは台所から出てこなかった。私は自分の部屋で休んでいた。真夜中を過ぎた頃にアダさんは私を台所に呼び寄せるので行ってみると、そこには焼きたてのピローグ(注:ロシアのケーキ)が用意されていた。「私が一番にお祝いするよ」とアダさんは言った。12時も回っているのに、二人でお茶を飲み、ピローグを食べた。私はそれまで、アダさんに子ども扱いされるのが嫌で、いつでも「自分でできる」を強調していたけれど、この日はひどく感動して、すっかり子供になってしまった。私が喜んでいるのを見て、彼女も満足そうな顔をし、私はアダさんの満足そうな顔を見てさらに嬉しくなった。ピローグはもちろんおいしかった。ロシア人はちょっとしたことで喜ぶことができ、また人を喜ばせることができる人たちなんだ、と思うと心が温まった。

3月に入り、私は帰国の準備で忙しくなった。いろんな人たちにお別れの挨拶をしたり、友達が送別会を開いてくれたりしたので、出かけることが多くなった。そのころアダさんにもお客があったので、私たちはあまりゆっくり話をする時間がなかった。そして、出発の当日。私は朝早く起きて、最後の荷物をつめていた。アダさんも起きていたが、朝食の用意をすますと、部屋に入ったきり出てこなかった。私は朝食をとり、アダさんにお別れしようと部屋に戻った。彼女は私の部屋の窓にもたれて、何も言わずにぼんやりと外を眺めていた。声をかけにくかったので、そばまで行って、やっと「アダさん」と言うと、アダさんは私がいるのに初めて気が付いたように振り返って「あぁ、もう行くの?」と尋ねた。涙声で最後のあいさつをすると、アダさんは私を玄関の椅子に座らせて、長旅の無事を祈ってくれた(注:ロシアのジンクスで、長旅前、玄関先でしばし黙って座ると、旅が安全なものになる、というもの)。それから私を抱きしめてくれた。これが私のロシア滞在の締めくくりとなった。

結局、「逃げ」から始まったロシア滞在であったが、得たものはかなり多い。その半分を与えてくれたのはアダさんであった。特に、ちょっとしたことで感動したり、人を感動させたりするロシア人気質は見習いたい。そうすれば、毎日がつまらないからと言って、逃げてしまうこともないだろうから。

1996年 記

(JIC国際親善交流センター・日ロ協会共同主催の「日ロ国交回復40周年論文コンクール(体験記の部)」最優秀賞受賞作品。一部、表現の変更を含む)

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